コブシというリズム、リズムというメロディ

純邦楽は聴かない。
避けているわけでもないけれど、接点がない。
今まで無かったかというと、そんなことは無く、父方の祖父は浪花節を聴いていたし、母方の祖父は家で三味線の練習をしていた。
母方の祖父の三味線が誰も形見分けで持って行かなかったので、貰って直して、端唄の一つでも唸れるようになろうか、なんて考えたこともある。
でもそんな三味線抱えてちょっと歌うだけでも、端唄、長唄、小唄、都都逸と、ジャンルがあるのも良く分からずに、世界中の音楽を聴き漁っているのは如何なものかと。
いったんそんな自省は置いておくとして、なぜ純邦楽を聴かないのか、とちょっと考えてみると、そのリズムに馴染みがないのが一番のような気がする。
普段耳にするリズムは、基本的に4ビート、8ビート、16ビートといった、4の倍数で構成されている。
ここから外れてくるのが、各地の民族音楽であったり、ヨーロッパ起源のクラシック音楽であったり、純邦楽も含まれていると思う。
純邦楽の主たる要素はリズムではなく唄であり、五七調であり、逆に言葉がリズムを形作っていると考えた。
楽器がリズムを奏でて、その上に歌を乗せるのではなく、歌がリズムを作っていて、その間に楽器を合いの手のように入れる、そのやり方が小唄、長唄、端唄といった唄なんじゃないかということである。
唄を西欧的なスイングやジャズのフォーマットに乗せていくことで生まれたのが歌謡曲だろう。
そこでは楽器の奏でるリズムと唄のリズムのどちらが優先かというと、唄になるだろう。
それが歌謡曲にあるコブシの中身であり、日本語という言葉が形作るリズムが、コブシを構成している。
話をさらに広げる。
言葉によってコブシが決まるのであれば、言葉が変わればコブシも変わるはずである。
そういう目線で、沖縄、韓国、台湾、インドネシア、トルコ、ポルトガルの歌謡曲を見ていくと、確かにそれぞれのコブシがあって、それがそれぞれの歌の特徴になっている。
言葉で作られるリズムに対して、リズムがまるでメロディのような音楽もある。
例えばインドのタブラ、イランのダフ、西アフリカのジャンベ、といった打楽器で奏でる音楽があって、4の倍数のリズムだけじゃなく、またBPMも変化する。
弦楽器、管楽器のような音程は無いけれど、叩き方により音色、高低が変化し、速度も変化しながらまるでメロディのように奏でられる。
言葉は無いけれど、これも歌のようなものじゃないかと思っている。
確かアフリカのトーキングドラムはリアルタイムで調律を変えられるので、遠くにいる人と会話ができるとか。
 
UnsplashMatt Botsfordが撮影した写真

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