平坦な街

(これから書くことは、フィクションである。だが、完璧なフィクションなど存在しないと思っているのだから、これはノンフィクションでもある。いずれにしても、久しく文章を書いていないので、文章を書く練習をしたいと思って、ちょっと書き出してみる。)

どこまでも平坦な街に生まれ育ったので、いずれは坂のある街に住みたいと思っていた。
山に住みたいのではない。
街の中に坂があって、坂を上ったり降りたりする生活に、何となく憧れのようなものがあったのかもしれない。
平坦な街を自転車で走ると、どこまでも行けるような気がした。
だから、二十歳までに自転車で日本一周をするなどと公言し、忘れた頃に友人からその目標はどうなったのかとからかわれた。
乏しい想像力の中では、平坦な街がどこまでも広がっている。
学校も、図書館も、ゲームセンターも、あいつの家も、あの娘の家も、平坦な街の中にあって、街の中に立って眺めてみても、見通すことなんて出来やしない。
方向を見つけて歩き出す。
あるいは自転車のペダルを踏んで漕ぎ出す。
その角を曲がって、交差点を越えて、次の街に行ってもそれは平坦な街の続きだ。
見知らぬ場所のようでありながら、似たような街だから、どこかで油断している。
大人になっても、近所のコンビニに行くような服装で、繁華街のデパートに行ってしまうのは、平坦な街に居たせいに違いない。
上の学校に行くにつれて、坂のある街で生まれ育った友達も増える。
坂のある街どころか、遠くの山の向こうの街からやってきた友達だっている。
坂のある街で育った友達と話をしても、坂のことは話には出ない。
山の向こうから来た友達だって、山のことが話に出ないように、平坦な街のことを誰かと話すこともあまりない。
やがて、平坦な街で一生を終える人間と、平坦な街から出て行く人間の二種類が存在している、という考えが胸を過ぎる。
それは選択可能な選択肢のような気がして、いつかは平坦な街を出ることを夢見てしまう。
夢見る自由は誰にでも等しく与えられているが、夢に取り憑かれてしまうのは、夢見た本人の不自由と言わざるを得ない。
平坦な街で一生を終える人間は自由がないと一方的に思って、平坦な街から出る夢に取り憑かれてしまう。
坂のある街に住んだところで、平坦な街を走っていた子供の頃の自分は、消えるわけではない。
その角を曲がって次の交差点で、信号待ちをする子供の頃の自分を見かけてしまうかもしれない。
通り過ぎた路地裏の縁台に、老人になった自分が腰掛けている背中が見えたのかもしれない。
そして今では、何かを探すように、時々平坦な街の中を歩き回ってみる。
そこに忘れたものがあるかのように、あるいは、そこから解き放たれるのを待っているかのように。

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