ひとつ

なぜ言語はひとつではないのか、という疑問を昔、抱いたことがあった。
英語に慣れなくて、何でこんなこと勉強しなくてはいけないのか、と訳もなく屁理屈をこねたい年頃のことである。
かつて人類はひとつの言語で話し、バベルの塔を作って神の領域に近づいたため、神の怒りを買い、分断されたのだという。
また、かつて人類はアンドロギュノス的存在であり、男女はひとつになっていたのだが、神によって分断されてしまったという。
かつてのジュブナイルで描かれていた未来では、ひとつの言語でひとつの国家連合が世界平和をもたらしていたり、食料は万能栄養食で一種類だけ摂れば良かったりというのもあった。
ひとつであることというのは、どうやら甘美な想像の領域にあるようだ。
そして、ひとつであることは退屈で、物語がない。
甘美な想像の領域にあるようでいながら、意味するところは死の静寂に等しい。
1という存在が存在するためには、自ら作り出してでもnot 1が必要になる。
正義の味方がヒーローであるためには、必ず悪者がやってきて平和を乱さないと、ヒーローではいられないどころか、彼が正義の味方であることも、この今が平和であることも疑わしい。
やがて不確かな存在に対する焦燥感に駆られて、悪者を探しに出かけることだってしてしまう。
何でもない出来事や偶然の事故は、見えない敵の陰謀説に取り込まれ、起きてもいない事件を予言する。
自ら作り出した敵を倒すために対策を立てて、作戦行動を準備する。
入念に訓練し、来るべき時に備える。
そこに疑問を差し挟むことは、not 1の陰謀であると解釈され、うってつけのスケープゴートとして消費される。
いったいこれは何の話だろうか?
どこにでもある、聞き飽きた良くある話だ。

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