物語の力

久しく小説を読んでいないなぁ、と図書館の書棚の前で思った。
仕事が忙しくて図書館が開いている時間になかなか帰れない、というのはあるけれど、電子書籍端末を持っていても、ダウンロードするのは近代文学が中心で、新しい小説家とかあまり知らない。
書評で取り上げられようが、TVで話題になってようが、Aの業者にお薦めされようが、Rの業者にお薦めされようが、手も伸ばしやしない。
思えば評論もろくに読まなくなった。(最後に買ったのは、東浩紀だったか、スラヴォイ・ジジェックだったか)
大上段に構えたことを言うようで恐縮だが、生活するために読んだり書いたり考えたりしているだけだと、狭い溝の中を走り回っている鼠のようだと感じる。
何かにぶつかって、何かを選択して、何処かに辿り着いたようだけれど、所詮溝の中を走り回っていただけなんじゃないかと。
安定した生活は必要だけれど、それは十分な世界ではない、と言い換えても良いかもしれない。
だからと言って、何も判らない不安定な生活に乗り換えたり、嘘くさい正義や理想に向かって目を瞑ったまま走りだしたいのではない。
たぶん、今までやってきたものの上にしか生きることができないくせに、違うことをやってきた誰かに成り代わってみたいと思っている。
そしてそれを実現するのが小説であり、映画であり、音楽なのだと思う。(演劇はちょっと苦手)
物語の中に没入して、自分ではない誰かに成り代わることは、生活の領域からはみ出た想像力の領域であり、こころのストレッチなのだと思う。
凝り固まった筋肉では瞬発力も持続力も出せないばかりか、ほんのちょっとしたことで怪我をしてしまうように、こころのストレッチを忘れていると、つまらないことで躓いて、容易く困難に負けてしまうことになるんじゃないだろうか。
何かをうまくやりこなすための思考と、ここではないどこかを想像する思考は、違う種類のものだろう。
優劣の問題でも、優先度の問題でもなく、それは、内なる多様性の問題だと思っている。
どれだけの色のクレパスを用意できるのか、いくつの抽斗を持っているのか、何の話をするのか、何処へ話を持っていくのか。
内なる多様性を広げるためのこころのストレッチが足りない、そう思った。

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