遠くへ、近くへ

地元という言い方があって、その反対って何だろうと思うのだけれど、それを表す言葉を知らない。
いま自分の住んでいる地域のことを地元という場合もあれば、生まれた場所、育った場所を地元という場合もある。
都合の良いように地元という言葉を使って、連帯感とか共有感を醸成しようとしている自分に気付き、ちょっと嫌になる。
自分のいる場所、いた場所は全て地元なのだと開き直るとしても、いつか行ってみたい場所、滅多には行かないけれど馴染みのある場所は、なんと言えばいいんだろう。
あらためて、場所を表す語彙の貧しさを自覚するのだけれど、それは場所に対する興味があまりないと言うことの端的な表れなのかもしれない。

北アメリカのインディアンを調査対象としていた、文化人類学者のカルロス・カスタネダの著書に出ていた場所の話を思い出した。
ドンファンシリーズとして知られる作品の中で、主人公は師であるドンファンからこんな話を聞く。
人にはそれぞれの場所があって、死んだらそこへ還ってゆく。
だから、人は死ぬまでに、それを見つけなければならない。
もう手放してしまった本なので、細かいことは覚えていないが、そんな内容だったと記憶している。
ちょっと感傷的過ぎるかもしれないが、とても響いた言葉だ。
それを絶えず意識することは無いが、歩いている何気ない時、遠い街角に立った時、バイクで知らない街を走っている時、そのことがふと胸によぎる。
魂の故郷、とでもいうその場所のことは、他人には教えてはならない、と確かドンファンは教えていたっけ。

地元とはどういう場所なのか、地元で無いとはどういう場所なのか。
おそらく地元という場所は、その都度浮き上がる浮島のようなもので、話の目的や流れに従って、適当に設定される自分のいる場所なのだろう、と考えている。
だから、どこにいようと地元にいると思っていると、少し楽しくなるかもしれない。
私は地元にいる自分というものが自分の全てでもないと思うのだけれど、やっぱり地元が一番好きだという人もいるだろう。
そこが地元であろうと地元ではなかろうと、自分の魂が還って行く場所のことを、たまに思いをめぐらしている。

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