分身の不可能さ、あるいは選択の不自由

いつも時間が足りないと思っている。
やりたいことはいっぱいあるのに、いつだって時間が足りない。
それは段取りが悪いだけで、時間は自分で作り出すものだという、半可通な仕事論には、早々に苦笑の混じった微笑を送っておこう。
そうではなくて、自分の時間が足りないのだと思う。
とても自己中心的なのだが、誤解を恐れずに言うなら、自分がそこに居て、それを体験しないことには、何も意味が無いと思っている。
24時間に収まらないぐらいの体験を詰め込んで、しかも、端折ることなく体験したいのだ。
こうしてブログを書いている瞬間だって、他にもやりたいことがあるが、ブログだって書きたい。
この果てしない欲望を解決する答えを探している。
分身というのは安易な答えの一つだ。
藤子不二雄の「パーマン」に登場するコピーロボットがあれば、解決できるだろうか、と考える。
だが、私という欲張りはどちらも欲しいのだ。
コピーロボットとはいえ、自分以外の誰かに自分のやりたいことを譲りたいとは考えていない。
そもそも、私ではない誰かに、私がやりたくないことを押しつけたいのではない。
超高速の瞬間移動はどうだろうか。
ある瞬間はA地点、次の瞬間はB地点に存在し、この2拠点を高速でスイッチングすることで、ほぼ同時に2つの地点に存在することができる。
だがこれで、並行で何かをすることができるのかは疑問だ。
それに加えて、それぞれの地点に、半分の時間しかかけていないのだから、体験そのものが薄まっている。
やはりどう考えても、時間そのものが足りないのだ。
ライフスタイルだって、同じ様に思っている。
都心で生活したいと思う反面、郊外の生活も捨て難い。
平日は便利で、休日に廃墟のような町に暮らすことと、通勤時間を自分の時間として楽しみ、休日には車で巨大ショッピングモールに出かけることは、あれかこれかの選択の問題ではなく、どちらも手に入れたがっている不可能性の問題だ。
絶えず何かを選択して、選択しなかったほうのことを忘れながら過ごしていく、ということ自体が不満なのだ。
そしてこうしている間にも、できなかったことが積み重なってゆく。

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