夢日記

他人の夢の話ほど退屈なものはない、と言ったのは誰だったか覚えていないが、そんな書き出しで古今東西の夢にまつわるアンソロジーを組んだのは、澁澤龍彦だったことを覚えている。
斯く言う自分は中学生の頃から夢日記をつけていて、ノートが10冊以上はあるだろうか。
読み返すことも無いのだろうけれど、止めるわけにもいかず、何となく続けてしまっている。
だが歳をとるにつれて、夢自体がつまらないものになってきたようだ。
どうしても現実のしがらみに絡み取られて、想像力が飛び廻るような夢はあまり見なくなったようだ。
時にはハッとするような色に彩られていたり、眼から鱗が落ちるような素晴らしい考えが思い浮かんだりすることもあったのだが、最近はそんなことも少なくなった。
これが想像力の衰えというものかとも思ったりするのだが、現実におけいても驚きや意外性に出会うことが少なくなっているのだから、夢の世界においては何をか況やというものだ。
だが刺激的な生活の連続から、刺激に満ちた夢が生まれるとも限らない。
田口賢司の「ボーイズ・ドント・クライ」は、1980年代の何もかもが浮かれていたバブルの中の倦怠を描いた作品だったように記憶しているが、いかんせん世間を知らない高校生の記憶なので当てにはなるまい。
現実と夢はお互い関係がありそうなのだけれど、正比例でも反比例でもない、絶妙な関係があるようだ。
夢はもう一つの人生だ、といったのは誰だったろうか。
一時期、夢に関する本を読み漁ったが、それで何か判ったというものでもない。
上掲の澁澤龍彦のみならず、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、島尾敏雄、横尾忠則、ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユング、シュルレアリスム関連、各種夢占いと、節操も無く読み漁ってもそこにあるのは、夢というテクストの記述とそれに連なる読み解く行為であった。
つまりは、無限の解釈されるべきものと無限の解釈であり、現実と夢の差はほぼ皆無であり、まともな夢もまともな現実も、奇妙な夢も奇妙な現実も存在する。
夢日記に記録された夢とは、解釈されるべき一つのテクストであり、日記に記された出来事や感想と等価だ。
つまりは他人の夢がつまらないのは、語り口のつまらなさであり、結局のところ、語り手に帰結するということだろう。
だからこう言うべきなのだ。
つまらない夢など無い、つまらなく語ってしまうことがある、と。

コメント

人気の投稿