電波状人間

こんなことを考えてみた。
私たちの肉体がタンパク質という固体で無かったとしたらどうだろうか。
1960年代の東宝「怪奇空想科学映画シリーズ」を意識したわけではない。
スタニスワフ・レムの「ソラリス」は、海そのものが生命体として存在している、と推測する。
惑星だけでなく、恒星の誕生から消滅までもまた、生命活動と見る考えもあるようだ。
そこまで壮大な話でもないのだけれど、このタンパク質の肉体が重いと感じることは無いだろうか。
例えば鳥のように空を飛び廻ることを想像したりしたことは無いだろうか。
軽い肉体で言うなら、昆虫たちは軽い肉体を身につけているようだ。
蟻を体長の何百倍もの高さから落下させても、地上に着いたら歩き出してしまう。
台風に乗って長距離を移動する蝶の話をどこかで聞いた事がある。
つまり昆虫たちは重力加速度より、空気の粘性が優っているようだ。
タンパク質の肉体から、キチン質の肉体へ。
とは言え、昆虫は嫌いなので、キチン質の肉体を獲得したいとは思わない。
或いは、コンピューターネットワークの中の生命はどうだろうか。
日々こうしてブログやSNSを通じて、私たちは自分のコピーをコンピュータネットワークの中に写し取っている。
そしてリアルな世界での発言するように、いやむしろより広範囲により高速で、ネットワークの中で発言が飛び交う。
私たちの言葉は写し取られ、分散され、デバイスからデバイスへ、記憶装置から記憶装置へ、朽ちることの無い発言者として存在し続ける。
よりSNSが頻繁になり、デバイスが言葉だけでなく、例えば身体データまでもがクラウドに記録されていくことは、私たちの存在のコピーと何が違うのか。
ネットワーク状人間は、不可避な流れでもうすぐ誕生するだろう。
まるで言いそうな事を言い、まるで興味のありそうなものに反応する、その一連のインターネット上の行動が、リアルな私ではないネット上の私によって自動的に為される。
誰よりも早く「いいね」を押し、興味のありそうなものに「+1」を重ねる。
リアルな私はやがて耄碌し、肉体は朽ちようとも、ネット上での私は相変わらず活動し続ける。
もっと考えを進める。
ネット上の私とはいかなる存在なのか。
ひとつひとつは一連のプログラミングによって動作する反応でしかないのだが、存在としてリアルな私と何が違うのか。
例えば私が、交通事故によって身体の自由がままならない、腕を持ち上げること、指先で端末を操作することがとても困難となったら、このネット上での私はとても助かる存在だろう。
間違った「いいね」や「+1」は取り消せばいい。
私という存在はネット上に写し取られ、私に良く似た活動をする存在は、私以上に的確で素早くネットの世界を飛び廻る。
ネット上の私とは、すなわち、電気信号に他ならない。
0と1が無限に続く差異の波。
有線のネットワークだけでなく、無線のネットワークにも広がってゆく。
ネットワーク状人間から電波状人間となった私は、光の速度で宇宙空間を飛び廻る。
電波状人間ならコンピューターに限った話ではない。
例えばこんな、電波状人間が何処かで生まれてくるという説はどうだろうか。
ひとつは何億光年も離れたクウェーサーから放射された巨大なエネルギーによって電波状人間は生まれ、はるばる何億年も宇宙空間を突き進んで届いているという説。
彼らは低い音で静かにこの宇宙を満たしている。
いつ果てるとも無く静かにだが消えることなく存在しているという。
また、別の説によると、ブラックホールへ物質が無限に落ちてゆく時に、物質がエネルギーに変換されると共に、電波状人間が産まれているという。
巨大な時空の曲面に沿って無限大に引き伸ばされた物質的な肉体の断末魔の叫びが電波状人間として放出されているというのだ。
電波状人間は粒子的性質を持ちながら、波動的な性質も持っている。
細いスリットをすり抜けた二人は、曖昧な影となって交接する。
それは淡い陰の移ろいの甘美な快楽だ。
電波状人間についてまだ何も知らない。

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