名前

誰でも、自分の名前の由来を、親に一回は聞いてみたことがあるだろう。
斯く言う私の本名は、生まれたときに住んでいた家の、隣の家のお爺さんがつけた。
画数だか字の意味だかが、大器晩成で家族を支える、という願いが込められているらしい。
ちなみに、和峰は戸籍上の名前ではない。
書道で段位を取得した際に、師匠から戴いた雅号である。
社会的には、戸籍上の名前よりも、雅号のほうが広まっているので、こうしてブログやSNS等に使用している。
ハンドルネームは自分で付けられる自分の名前だ。
いくつか使い分けているが、そのひとつである「うんでれがん」は、江戸言葉で「馬鹿者」のことだ。
夏目漱石の「坊ちゃん」に登場する。
そういえば、あだ名もある。
あだ名は、渾名、綽名とも書くようだ。
仇名となると、浮名のことのようだ。
あだ名は自分で付けられないうえに、嫌なものだってあるだろう。
大人ほど気を使わないものだから、子供のやることは残酷なことも多い。
こうしてみると、自分という存在は一つであるのに、様々な呼ばれかたをする。
むしろ、呼ばれかたの分だけ、存在するのだとも考えられる。
なぜなら、名前があるものは存在するものであり、名前の無いものは存在しないものだからだ。
むしろ名付けることで存在するようになる。
(名付けることをテーマにしたモーリス・ブランショの小説があったと思うのだが、思い出せない)
名付けることが出来ないものは存在しない。
だから、心霊現象もUFOも存在する。
でも、UFOは単語の意味である「未確認飛行物体」からすると自己矛盾的だ。
だがそのように名付けられたのだから存在する、と言える。
そう思うと古今東西の妖怪たちは、須らく存在するのだから一度お目にかかりたい。
文明と技術の発達によって日本の街から闇が消えてしまった、と誰かが書いていたっけ。
確かに道路は舗装され街灯が灯っているのだから闇は駆逐され、妖怪たちの住む場所は無くなったかのようだ。
しかし私の住む町では、未だに里山の一部が緑地や公園として残されている。
街灯も無く雑木林がうっそうと茂るそこは、夜には闇がある。
風の音と木の葉の擦れ合う音。
光は月明かりだけで、手元すらおぼつかないのだから、足の先までは見えやしない。
月明かりが道を照らしても、木々の陰には闇が広がる。
スマホなんか取り出しても、目が眩むだけで、光は闇に吸い込まれてしまう。
眼と耳と肌の感覚が、研ぎ澄まされていくような気がする。
今まで見たことの無いもの、想像を超えてしまうもの、そういったものに出会ってしまうような気がしてくる。
だがそうしたものに名前をつけることで、得体の知れない恐怖めいたものは、既知のものへと変化する。
名前をつけるということは、何よりも強力な力があるのかもしれない。

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